うそみたい
カフェのスタッフやパートナーさん、ご住職や坊守さんの、色々なくせや雰囲気を思い出している。
発声の仕方や、頷き方や、間の取り方、視線の向き、手振り、姿勢、口ぐせ、、色々ある。
片目を閉じて笑う顔、突然笑う大きな笑い声、「わかるー」という相づち、「そっかそっか、そうだったんだね」と聞いてくれるときの目、おはようの言い方、手を洗いながらこっちを見て話す時の身体の形、冷蔵庫の閉め方、オーダーの伝え方、スリッパをぬぐ位置、書き置きの字、ちょっとおもしろい事を話すときの始め方、朝早く丁寧に床を拭くたたずまい、遠くで目が合った時の表情の作り方、、みんなの時々の姿が、脳内で簡単に再現される。
2年にも満たない短い時間ではあるけれど、そうなるくらいには、初めましてだったみんなと一緒に働いたんだ、と思う。
店長にはいくつか口ぐせがある。
わたしはその全部が好きだから、ふとした時に聞けると、「あ、言った。」と嬉しくなる。
そのひとつが、「うそみたい」というもので、なにかおかしいことや、嬉しいことがあった時に言う。少し笑って言う。
小さなハプニングやピンチの時も、笑って、そう言う。
いつだかその口ぐせが好きだと言ったら全然言わなくなってしまい、言わなければ良かったなと思っている。
こよりどうカフェはうそみたいなカフェだと思う。
うそみたいに始まって、うそみたいにメニューを開発して、うそみたいにパートナーさんが助けてくれるし、うそみたいになんでもなんとかするし、うそみたいに忙しい日や、うそみたいに暇な日があって、うそみたいに色々な人が訪れ、うそみたいにきれいな窓や天井や壁があり、うそみたいに恩が送られて、うそみたいにかわいい泣き声がして、うそみたいにそれを誰かがあやし、うそみたいにママ達がゆっくりご飯を食べて、うそみたいにみんなこの場所が好きで、うそみたいに今日もカフェが開いている。
そんなうそみたいな毎日を作っているのは、みんなのとても本当の、単純な手の動きや足の動きや、言葉のやりとりで、どこにでもあるとても普通の積み重ねであるのを、わたしは知っているけれど、そのひとつひとつを思い出すと、どれもがとてもその人らしくて笑ってしまう。
わたしはこのカフェのスタッフを辞めることにしたけれど、うそみたいでとても本当な毎日が、ここでずっと続いていくことがなんてすごいことだろうと思っている。
いいな、と思っている。
疲れたら、terabaruにこっそりお邪魔しよう。
誰を連れてこようかな。
誰が迎えてくれるかな。
きっと、わたしは嬉しくて、お酒をたくさん飲むんだろうな。